経論の教えから その3 『浄土和讃』

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど 塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ

 

仏教では「五戒」と言いまして、①殺生をしない、②盗みをしない、③浮気をしない、④嘘をつかない、⑤飲酒をしない、という在家信者に向けた5つの戒めがあります。もし破ったらどうなるかと言いますと、殺生や盗みはもちろん国の法律で罰せられますが、実のところ宗教的には罰則がありません。戒は自主的に守るべきものであり、他律的な性質を持ってはいないからです。ただし、「懺悔(さんげ)」と言いまして、五戒を破るようなことをしたら、しっかりと告白をしないといけません。これはつまり、守らないといけないと言うよりは、守れない自分を知るということに意義があるようにも思えます。

 

五戒は一見しますと、結構守れるのではないかと思えます。しかし、仏教では「身(しん)・口(く)・意(い)の三業(さんごう)」と言いまして、行いを身体(身)と言葉(口)と心(意)のすべてに想定しています。たとえば浮気はしていなくとも、心のなかで妄想を広げているようでは問題です。殺生も同じでしょう。心のなかで何を思っているのかは、その人でなければ分かりません。ただし、心というものは厄介で、これを正しく保つためには、出家をして世俗の迷いを捨て去らねば難しいとされます。在家の私たちにとりましては、正しい心でいるということは本当に難しいことではないでしょうか。たった5つの戒めも守ることができないわけです。

 

そしてさらに言えば、私たちはそもそも殺生と関わりがなければ生きていくことさえ出来ません。自分で殺生をせずとも、毎日、動植物の命をいただいて生きています。自ら殺生はしていなくとも、これは殺生をしているに等しいことでありましょう。殺生をすれば地獄行きです。涼しい顔をして過ごしていましても、地獄へ行くことしか出来ないのが私たちなのです。だからこそ、宗教には救いがあるのでしょう。何か良い行いをすれば救われる、人のために尽くせばきっと救われる。こう説かれることはしばしばです。ただ、頑張ったとしても、五戒を守ることすら出来ないことに変わりはありません。

 

冒頭に「弥陀成仏」とありますのは、阿弥陀如来のことです。阿弥陀如来の救いの本質は、私どもの行いによって救われるというのではなく、私たちはすでに救われているというところにあります。阿弥陀如来は遠い遠い昔、『無量寿経』では「十劫(じっこう)」と呼ばれるような昔。すべての者が救われるよう願われて成仏、つまり如来となられました。すべての者が救われるという意味において、それは永遠に近い「塵点久遠劫(じんでんくおんごう)」よりも遠い昔のことでありながら、救いのはたらきは、その昔から今、そして未来へと届いていくものなのです。これを中国の曇鸞(どんらん)大師は、「草木に火をつけたならば、草木がまだ燃え尽きていないにもかかわらず、火種はなくなっているのと同じようなことだ」と述べられています。私どもがどのような存在ではあっても、すでに救われている身であったのです。「塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ」とありますように、時の流れを超えた、より普遍的な救いのはたらきであることが示されています。私たちはこれから救われるのではなく、もうこの瞬間において、すでに救いの真っ只中にいるわけなのです。

 

数ある日本の仏教宗派のなかでも、浄土真宗では五戒を守ることをとくに言いません。しかし、自分を知るということは、五戒があってはじめて出来ることではなかろうかと思います。守れないからこそ、五戒は敢えて存在しているとも言えるでしょう。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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