幽霊が話しだす時代

お能を鑑賞していますと、この世とあの世が交錯しているかのような錯覚に陥ります。幽霊が出て来まして、ごく普通に生前の出来事を話し始めます。 舞台はこの世なのですが、あの世との境界線に迷い込んだような状況です。 昔は美人だったと語ってみたり、先に死んだことの弁解をしてみたり、妙に生活感あふれるので可笑しかったりもします。

 

現代人的感覚からしますと、お能は古典芸能で物語だから幽霊も出るのだろうと思いがちです。半分正解ですが、半分は不正解でしょう。なぜならば、幽霊が普通に出てくるのが中世の日本であり、日本人は幽霊を感じながら生きていたからです。もちろん科学的に計測できるような存在ではありませんが、日本人の五感からは幽霊が感知されていたのでしょう。

 

仏教の教えを厳密にひも解きますと、幽霊が頻繁に出てくるということはありません。幽霊を見るのはこちら側の都合であり、いるような気がしたというのが本当のところなのでしょう。つまり、中世の日本人はこの世とあの世を同一線上に捉えており、現代人のようではない。現代人はあの世に対して疑念を抱きがちですが、 それは科学的に計測できないからだと言えます。

 

死ぬことは理解出来てはいるのですが、その後のことは分からない。これはとても不安なことです。武士の生き様に触れますと、よくもまあ死と隣り合わせでしょっちゅう戦に臨んでいたものだと思います。受動的に戦に接しているわけではなく、能動的に、むしろより積極的に戦に生涯を捧げているわけですから、並大抵なことではありません。

 

戦の連続であり、飢えや病気で亡くなる人も多かった時代です。きっと、あの世はもっと身近な存在であったことでしょう。幽霊が普通に出てくることも頷けるような気もします。現代人が真似を出来るようなことではありませんが、あの世を感じて生きるということ、もしかしましたら、それがこの世を生きる上で大事なことなのかもしれません。

 

死を避けることは出来ません。おそらく、どんなに進んだ科学をもってしても、不老不死に至ることは不可能でしょう。始まりがあれば終わりもある、それがこの宇宙の道理だからです。しかし、終わりはまた始まりであり、死はまた生でもありましょう。この世を死ぬということは、あの世を生きるということでもあります。

 

昔の人々に学ぶことは本当にたくさんあります。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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