宗教観と国際性

アメリカの大統領選挙において、トランプ候補はプロテスタント、バイデン候補はカトリックというように、それぞれの宗教も情報として出されています。アメリカ人にとって両者の宗教的基盤というものは、投票先を決めるためには重要なのでしょう。一方、日本の菅総理大臣の宗教と言いますと、日本ではとくに話題にされていないようです。少なくとも今、私は即座に答えることが出来ません。東北出身なので仏教なら曹洞宗かなあとか、そんなイメージはありますが、実際のところは分かりません。多くの日本国民にとって、あまり興味のないところなのかもしれません。 
 
欧米人にとって、宗教とは基本的には1つなのだと思います。キリスト教やイスラム教というように、どれか1つを選び取っているのが常識的なのでしょう。こうした宗教観は日本にもないわけではありませんが、常識的とは言えそうにありません。そもそもお寺と神社の違いを明確に認識している人がどれほどいるかと言いますと、国民の半分もいるかどうか微妙なところです。お寺のなかに鳥居が存在することもあり、何が何だか区別がつかないというのが率直な意見かもしれません。しかし、何も心配することはありません。それで構わないのが日本的なのです。 
 
日本は山あり海あり自然豊かな国土と言えるので、今でも国民には自然崇拝的な感覚が色濃く残されています。大木には神仏がやどり、川には神仏の意志があるかのように思えます。都会であっても各所に祠が残されており、神仏の存在を感じ取る入口になっているかのようです。お寺や神社に行かなくとも、歩いているだけで神仏と出会えるのが日本的なのだと言えるでしょう。仏教は外来宗教ではありますが、日本固有の神と同一視されることによって定着しました。また、神社に祀られている神であっても、外国出身の神と同一視された由来や、そのまま日本化した由来を持っていることもあります。 
 
このように、1つを選ぶ感覚よりも、すべてを受け入れる感覚が多く見受けられるのが日本的宗教観と言えます。だからでしょうか、「あなたの宗教は何?」と聞かれると困ってしまうのは典型的な日本人です。1つを選ぶ感覚自体がないので答えようがないのです。初詣や七五三は神社、葬式や除夜の鐘はお寺、ついでにクリスマスもしています。欧米人からすると驚くべき事態でしょうが、私たちにとっては普通です。何が問題なのかもよく分からない。もちろん1つの宗教を選んで敬虔な信仰生活を送られている方もいらっしゃいますが、多数派とは言えないでしょう。 
 
菅総理大臣の信仰についてほとんど関心がないのは、こうした実情によるのだと思えます。アメリカ人とは随分と違いますね。宗教観に正しいも正しくないもありませんので、日本人はこうした寛容的な感覚を誇りに持って良いはずです。真に国際性を身につけたいのであれば、外国人の真似ではなく、日本人としての感覚を磨くことから始めるのも有効な手段でしょう。外国人からすれば、日本人は日本人なわけであり、外国人が知りたがっていることは日本のことなのではないでしょうか。日本のことをしっかり伝えることが出来て、はじめて自分の国際性は高まってくることでしょう。 

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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