宗の教え003 道理を知って充実度アップ

わが家にはワン公と猫ちゃんがいます。猫ちゃんは叱っても知らんふりが多いのですが、ワン公にはある程度しつけをしたつもりです。粗相をしたりしますと、ダメだと言葉で言い聞かせつつ、お尻をひっぱたいていました。やや太っちょなので、あまり効果はないかもしれません。それでも本人は痛いからなのか、ほとんど粗相はしなくなりました。玄関のチャイムが鳴りますと、さあ仕事だとばかり吠えたてます。ある程度は玄関番で都合が良かったのですが、あまりにもやかましいので、これもお尻をひっぱたいてしつけをしていました。ただ、こちらはいっこうに効果がなく、今でも吠えまくっています。 
 
ある時、娘が生物の先生から教えてもらったそうです。ワン公はひっぱたいても効果はなく、叱られることをしたら家族全員で部屋から出て、独りぼっちにさせると効果があるとのことでした。なるほど、原始的に体罰を下すよりも、心理的な方面から攻めるほうが効果はあるのかもしれません。身体的な痛みというものは一時的なものですよね。わが家のワン公に言葉の理解は難しいかもしれませんが、心で理解するとでも言うのでしょうか、納得させるほうがしつけの近道なのでしょう。痛いからやめるのではなく、家族に何やら叱られてしまった、態度も冷たくなった、さびしい、吠えないほうがいいかも・・・、という具合です。 
 
心でちゃんと納得してもらえなければ、伝えたいことはちゃんと伝わりません。わが家のワン公と同じというわけではありませんが、これは教育や子育てにおいても言えます。心で理解するというのは、言い換えれば道理を知るということです。痛いからという感覚的な受け止めではありません。痛みはあくまでも身体的な神経伝達の問題なので、そこに心が介在することはありません。いわば反射です。痛いから言うことを聞く。ただそれだけです。痛みを忘れればまた繰り返します。効果が長続きしないのはそのためです。道理を知ることによって、心から納得することができる。誰でも合点がいかないのは嫌ですよね。 
 
人は言葉を相互理解の一助として使っています。ワン公や猫ちゃんにも使いますし、まだ言葉を理解しない赤ちゃんであっても言葉で語りかけます。理解して欲しいからです。理解して欲しいという思いが言葉となり、心に伝わります。言葉を介さず心と心で直接伝え合うということもありますが、それは日常的には難しいでしょう。だからこそ言葉に心を乗せるのです。丁寧な言葉は理解を促しますし、心というものは案外合理的なものです。ちゃんと道理が通じてこそ、相手の心も受け取ることができます。なるほどね、と思えなければ誰しも座りが悪いでしょう。 
 
言葉はすべてを伝え切れるわけではなく、事柄の一部を表現しているまでのものです。仏教では、言葉だけにとらわれてはいけないと説くこともあります。しかし、まずは言葉です。だからこそ経典も存在しています。経典はお釈迦様のお説法集なので、教えが言葉によって示されています。仏道を志す者は経典を勉強し、まずしっかりと教えの道理を知ることに努めます。最終的には以心伝心、つまり言葉はもう必要なく、心によって心に伝えるような間柄になるわけですが、そこに至るまでは長い道のりです。物事の筋道をしっかりと理解することができれば、その分だけ不満や不安は軽減されることでしょう。理解できなかったり、納得できなかったりするから不満であり、不安なのです。道理を知ることによって、少しでも自分にとって充実した人生を歩んで行きたいものです。無理矢理ではなく。
 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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