受動態と日本人の宗教的感性

I was surprised.(驚いた)。中学生はもちろん、私でも翻訳できる英語です。しかし日本人としては奇妙ですなあ。なんで受動態なんだろ。形容詞的用法とかありますが、単純にそう思います。たしかに「驚く」という行為は何か対象が必須です。驚くに限らず、感情は何であれそういうものでしょう。I was pleased.(喜んだ)やI was disappointed.(失望した)も同じです。何かに驚き、喜び、失望しているわけです。なるほど、確かに「驚かされて」、「喜ばされて」、「失望させられて」いますね。でも日本人としては、対象の存在をことさら説明する意図や、能動性を打ち消したい意図がないかぎり、受動態は使いません。

 

ところで、西行法師は「いつの間に 長き眠りの夢さめて 驚くことの あらんとすらむ」(私訳:いつになれば長い迷いからさめて、動じないでいられるのか。)と詠みますが、驚くことは自らの煩悩に由来していると見ているようです。この世は諸行無常であり、何があっても別段驚くようなことはないのだが、煩悩のあるままに眠りこけている私は、いつになったら真理に通暁することやら。

 

大乗仏教の多くが唯心論を展開していくことは以前述べましたが、西行もまた唯心的世界観を持っているのでしょう。心のあり方と外的世界に関係性を持たせていることが窺えます。また、仏教では一般に自業自得とも言いまして、自らの行為やその影響による結果は、最終的にはすべて自らが得ることになるとも説きます。一見外的な要因に見えることであっても、それは自らに由来すると捉えているわけです。

 

こうした思考が日本人一般に見られるかと言いますと、現代的には全くそんなことはないでしょう。しかし、現代日本語であっても、こうした仏教的世界観を通じて積み重なってきた用法を受け継いでいますし、そもそも、西行法師が詠んでいることであっても、何となく理解できる人は多いのではないかと思います。

 

また、日本人は一神教の宗教観を伝統的には持ちませんし、それも影響しているかもしれません。唯一神のような、超越的かつ外部的な何かの下に人があるとは思いにくいでしょうし、これは一般的とは言い難い。日本人一般において、何らかの導きによって「~されている」という感覚は、乏しいのではないでしょうか。もう一歩踏み込んで言いますと、日本人にはあまり受動的感性はなく、基本的にはすべて自己に由来するものとして受け止めている。主語を明確にしなくても意味が通じるのは、こうした感性に由るのかもしれません。

 

英語の受動態が一神教に関係するのかは分かりませんが、日本人が受動態を多用しないということには、以上のような宗教的事情も関係していそうです。普段、あまり自らを宗教的だと感じることのない日本人ですが、日本人の宗教的感性というものは、意識的に明確化されると言うよりも、無意識的でありながら、思考や生活に溶け込んでいるものなのでしょう。ただし、例外もありますので、それはまた次回お話させていただきます。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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