経論の教えから その8 『いろは歌』

色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 

有為の奥山  今日越えて 浅き夢見じ  酔ひもせず

 

いろは歌です。多くの方が知っておられることでしょう。これが仏教教理に基づいたものだと知っておられる方は、中学のときにちゃんと勉強された方かもしれません。いろは歌は仏教そのものだとも言えます。いつ誰が作られたのかは分からないようですが、無常を感じることの多かった時代であったのでしょう。

 

私訳しますと、以下のようでしょうか。

 

美しい花々(=色)は香りよく麗しいといえども、散っていく。私が生きるこの世において何か、決して変わることのないもの(=常)があるのだろうか。さまざまな現象変化(=有為)が連なってはいても(=奥山)、今日からは捕らわれることもない(=越えて)。(栄華は続くものだという)浅はかな思い(=夢)はやめにして、(一時の快楽に)酔ってしまうことももうあるまい。

 

うまく訳せませんが、こんな具合でしょう。諸行無常という仏教教理があります。私の生きるこの世のすべては、どんな事物であっても固定的存在はなく、すべて変化ある現象なのだということです。身体について考えるのが最も分かりやすいでしょう。人は年を取ります。永遠に生きることありません。私もまた無常なのです。しかし、それに抗ってしまうのが私であり、だから苦しく辛く悲しい思いだけが沸き起こってしまいます。

 

存在はすべて有限だと仏教は見ます。生きるということは無限ではなく、この有限を知ることに意義があると言えましょう。また、『いろは歌』は、花々は有限、つまり散っていくからこそ美しい、ということを詠っているとも受け取れます。日本人の美的感覚は、まさに有限性にこそあるのかもしれません。

 

宇宙は無限と言うよりも、むしろ、有限の繰り返しでしょう。生死は繰り返されていくからです。私たちも現象の1つであり、繰り返されていく1コマです。しかし、その1コマがないと繰り返しは完成せず、1コマであっても、決して不必要というわけではありません。1つが全体を成り立たせ、全体が1つを生み出している。一即一切、一切即一。だからこそ、1つが輝くのだと思います。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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