経論の教えから その5 『維摩詰所説経』巻上

煩悩を断ぜずして涅槃に入る

 

仏教では基本的には煩悩を消し去ると言いまして、あまりよろしくない欲望はなくしていくことを目標にします。これは簡単に言えば貪りの心であったり、怒りの心であったり、また、物事を自己中心的に見てしまう心のことです。あれも欲しいこれも欲しいでは、いつになっても落ち着きません。怒ってばかりいては、楽しいこともつまらなくなってしまいます。自分勝手に振る舞っていては、気づけば周りには誰もいなくなってしまいます。こんな簡単なこと、誰でも分かっていますね。

 

誰でも分かっていること、これを何とかするのは本当に難しいことです。裏を返せば、難しいからこそ、誰でもそりゃそうだと頷けるのでしょう。こうした心がなくなれば、たしかに平穏な生活を営むことが出来そうです。煩悩はよく火に譬えられまして、それがすべて消えた寂静な境地を涅槃と言うのです。涅槃とはサンスクリット語で「ニルヴァーナ」と言います。本来的には火が吹き消された状態を指す言葉です。

 

ニルヴァーナと言えば、40代ぐらいの方ですとロックバンド「NIRVANA(ニルヴァーナ)」を連想されるかもしれません。バンド名はサンスクリット語から取ったのでしょう。なかなか良いセンスをしています。曲もかなりカッコよかった。しかし、中心人物のカート・コバーンという方は悩みが多かったようで、歌詞は内面的で分かりづらいところもあるように思えます。苦悩を多く感じる方であったからこそ、仏教に言うニルヴァーナ=涅槃という境地に惹かれたのかもしれません。敢えて言えば、消え去りたいという願望であったとも考えられるでしょうか。

 

ただ、ロックは煩悩そのものです。煩悩の発露こそロックという表現であると言えるでしょう。煩悩を直接ぶつけるから良い曲が出来るわけです。そして、そもそも表現はすべて煩悩であるとも言えるので、いかに芸術性が高いものでもやはり煩悩を消し去ることは出来ないでしょう。表現という過程において、自己中心性がまったく消えることは考えにくいことです。なぜならば、表現とは取りも直さず自己発現であり、自意識を完全に捨てた表現というのはあり得ないからです。涅槃とは究極的には仏の境地であり、それは自他平等であるとも言われます。自と他との区別はもはや存在しません。愚かな自己中心性こそ、煩悩の根源であると言えるのです。

 

とまあ、いきなり堅苦しい話になってしまいましたが、煩悩とはかなり手強いものだということが分かるかと思います。それで今回の法語ですが、「煩悩を断ぜずして涅槃に入る」とあります。なんだ、言っていること全然違うじゃないかとなりますが、涅槃は決してどこか遠いところにあるわけではありません。煩悩と涅槃とは裏表みたいなものです。涅槃を探し求めて旅をしたところで、どこか遠くにあるというイメージではありません。煩悩まみれの今、そのままこそが涅槃であるのです。これは意外と簡単な話で、他でもない私自身の心が煩悩で曇っているため、今ここにある真理に気づくことが出来ないというわけなのです。そもそも煩悩を消すことに拘ること、これもまた煩悩であるので、実はあるがまま、そのままであることこそ、真理であると言えるのです(これこそが難しいのですが)。

 

ロックというものは頭で聴くのではありません。聴こえるまま、そのままでないと自己中心性が入りこんでしまいます。煩悩を煩悩のまま、そのまま受け入れるのです。これは表現者にも言えることで、心をそのままストレートに表現できれば、自己中心性を消し去ることが出来ることでしょう。こうした意味において、やはりロックは生、すなわちライブで聴くことこそ、表現者と聴聞者との一体感のなかで自己中心性は消えていくのだと思えます。ロックは表現である以上、涅槃とは異質のものではありますが、敢えてこう考えることも出来るかもしれません。

 

NIRVANAのカート・コバーンは涅槃の境地に到達できたでしょうか。私はきっとできたと思います。彼が亡くなったのは、94年の4月5日だそうです。

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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