経論の教えから その2 『唯識三十頌』

仮に由りて我法ありと説く。種々の相転ずることあり。彼は識の所変による。

 

我法(がほう)とは我と法に分けられます。我は自分自身だと思って良いでしょう。自分としての主体です。法とはこの宇宙のすべての存在です。名前をつけられるものすべて。我と法について、私たちはちゃんと存在していると思っています。そりゃそうですよね。自分は今ここにいますし、周囲の事物の存在を認めることも容易です。あたり前です。しかし、そのあたり前に落とし穴があることに、私たちはあまり気がつきません。

 

こうした我法は真実在ではなく、仮(け=かり)に存在するのだと言います。仮という言葉は仏教ではとても重要なので、憶えておいていただけると良いかもしれません。

 

仏教では事物の存在に気づいたとしても、それは仮にそうあるだけであり、個別性を即座に認めるということをしません。言い換えれば、机を見たならば、私たちは「机」だと普通に思うことでしょう。しかし、机というものは、そもそも木材の集合体であり、バラバラにしてしまうことが可能です。「机」という名をもって仮に存在を認めているものが机なのであり、本性は別のところにあることになります。

 

なぜこのような見方をするのかと言いますと、事物への執着心が私たちの苦悩の根源にあると考えるからです。執着する対象、たとえば大事な机など、大事で仕方がないという思いが、時には自分を苦しめることにもなります。よく考えてみますと、私たちの苦悩というものは、何かを大事に思いすぎているというところに発すると言えます。ただ、その対象というのは、執着するような個別性があるわけではなく、自分が勝手に真実在のように思いこんでいるだけなのです。

 

事物の相(=すがた)は私たちの見方によって変化(=転)します。机と見るのか、それとも木材と見るのか。私たち一般の使用者と、机を製造している方とでは見方は異なることでしょう。事物というものは、私たち一人一人の心のあり様(=識)によって、まったく異なるように見えてくる可能性があるのです。そうであるにも関わらず、仮に名をつけて、便宜上、そう用いているものに対して執着心を持ってしまう。まったく見当はずれな苦悩を、他でもない、自分自身が作り上げてしまっているわけです。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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