形式よりも、お別れはとても大切

コロナ禍におきまして、お通夜をしないいわゆる1日葬が目立ってきました。葬儀の規模は経済状況に左右されると思いますが、縮小ぎみであったものに拍車がかかったと言えましょう。新型コロナウイルス感染予防の観点から、参列者人数を絞っているということもありますが、経済的な問題が大きいと感じます。 
 
葬儀は今から6万年ほど前、中期旧石器時代、ネアンデルタール人に痕跡が見られるとのことです。今でこそ日本では葬儀と言えば仏教ですが、仏教伝来以前からも当然葬儀は行われていました。おそらくは先祖との合一を願う儀式が行われたのかと思います。仏教伝来以降、儀式として仏式にはなりましたが、基本的な考え方に変化はないように思えます。 
 
仏教は葬儀に理論を与えたと言えまして、大きく見て滅罪と引導ということになります。この世で犯した罪を浄化(=滅罪)し、それによって先祖の世界へ旅立つ、仏教的には極楽浄土へ往生(=引導)ということになります。宗派によって引導の有無はありますが、感覚としてはどこも同じことをしているとも言えそうです。 
 
お通夜をする意義は、お釈迦様の亡くなる際、夜通しお弟子様が悼んだという故事によっています。ただし、僧侶が直接葬儀に関与することには、お釈迦様は否定的であったそうです。インドにおいて、かつて葬儀は信者さん同士で行っていたと思われます。僧侶は修行優先だからです。 
 
実は日本においても、葬儀に仏教が関与するようになるまで時間がかかりました。当初、僧侶は僧侶同士の葬儀は行っておりましたが、信者さんの葬儀には関与していませんでした。鎌倉時代あたりから、半僧半俗のような方々があらわれまして、葬儀を担っていったそうです。 
 
僧侶同士での葬儀法が一般化し、今に至っています。戒名法名を付与するということも、形式的ではありますが出家作法の一部とも言えます。僧侶として送っていた名残でしょう。それが仏教徒になるという意味合いに転化したのだと思います。戒名法名がないと極楽浄土へ往けないとか、そういうことではないのです。 
 
現代的に見てお通夜は、仕事関係の方々が参列する機会でした。会社帰りに寄るにはちょうど良い時間帯です。しかし亡くなる方も高齢化、そして喪主や施主も高齢化となりますと、すでに仕事をされていない方も多くなっています。お通夜の意味が薄れていったのは、経済的な意味と同時に、こうした高齢化社会も影響を与えています。 
 
葬儀のあり方はその時代を反映しているものですので、決まった形態でないといけないということはありません。自由なのです。ただ、お別れをするという意義については、大切な方を亡くされた方々にとって、これからの人生を歩むためにも大切に考えてほしいことではあります。 
 
お別れからくる心の大きな穴というものは、すぐには埋まりません。段階をへて、少しずつ埋まってくるものでしょう。私もそうです。お経を読んだり、何かしら儀式めいたことをすることによって、つまり段階をへることによって、埋めていくことができると感じています。 

 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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