宗教はそもそも必要なのでしょうか?

いきなり「宗教」と聞きますと、あまり良い印象を持たれない方もいらっしゃることでしょう。宗教団体による事件はまだまだ記憶に残っていますし、宗教をかたった詐欺が横行していたこともありました。宗教はなくても大丈夫だと思われている方も多いようです。戦後、日本は平和な国を築いてきておりますし、普段の生活も格段に便利な時代になりました。日常生活のなかで生死が問題になることも少なくなり、より快楽を求めることに価値が求められている時代になったとも言えましょう。

 

仏教では「生・老・病・死」(しょう・ろう・びょう・し)と言いまして、人生というものは皆に等しく4つの苦悩があると見ます。生まれ出ることは一般的には喜ばしいことですが、仏教では輪廻の結果、自らの業(行為とその影響)によって、人として迷いの世界が現れ出ているのだとします。そして、再び業を重ねながら老いていき、病気を患いながら死に至る。さらに輪廻を繰り返すことになれば、これは苦悩以外の何ものでもないと言うのです。う~む、たしかに的を射ています。最後に死を迎えるということは、これはもう万国、いえ万人共通なのですから。

 

便利で快適な世の中というものは、こうした人の持つ本質的なあり方を見えづらいものにする傾向があります。いつまでも健康に、いつまでも若々しく、というフレーズは巷に溢れています。簡単に健康が手に入るような気にもなりますが、現実はそうそう上手くいくものではないでしょう。元も子もない言い方になりますが、病気になるときはなりますし、死ぬときは死ぬのが人です。もちろん病気はある程度は予防することも可能ですが、それは絶対的なものではありません。日常生活が便利で快適であればあるほど、楽しみにばかり目がいってしまい、こうした現実に気づきにくくなることもありそうです。

 

宗教にはよく「目覚める」という言い方が使われます。仏教でも「覚り」と言いますし、これは今まで見えていなかったところが見えるようになることです。暗中模索であったところ、パッと日が差してくるようなイメージです。宗教の貴重なところは、何となく誤魔化していた自分を省みて、少しは現実を見つめようじゃないかと助言をしてくれるところです。そりゃもう仏教なんて2000年以上の歴史がありますから、毎度毎度同じようなことを繰り返している人のあり様なんてお手の物です。昔から人の中身なんて、そうそう変わるものじゃないでしょう。

 

人生を楽しむことは大いに結構なことです。しかし、宗教が言うように現実にも目を向けるならば、実はもっと人生は楽しくなることでしょう。なぜならば、誰しも迎えねばならぬ「老・病・死」について、早めに自分自身で考えておく余裕が出来るからです。もちろん、それで不老不死になるなんてことはありません。しかし、多少なりとも覚悟を持って生きることができれば、毎日が有難いという心持ちになってくるのではないでしょうか。休日は家でゴロゴロの人もいらっしゃるかと思いますが、有難くゴロゴロしていればいいのです。覚悟と言いましたが、あまり大袈裟なことではなく、これもやはり「目覚め」と言えます。限りある人生なのだということへの目覚めです。こうした意味において、私はやはり宗教は必要なものだと考えています。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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