宗の教え 001 少欲知足で充実度アップ

身長があと5センチ、顔はもっと精悍に、お財布の中身も減らない、食べて飲んでの贅沢三昧、体型も維持されてモテモテ路線まっしぐら・・・、個人的な願望です。50歳も近くなってきた最近はさほど思いませんが、若いころはこんな頭のなかでした、坊さんなのに。本能的と言うか何と言いましょうか、理性のかけらもなく欲望のままですね。恥ずかしい。少しは理性的でありたいと思いますが、人は理性よりも欲望が本質なのかもしれません。 
 
仏教では五欲と言いまして、人には眼・耳・鼻・舌・身という感覚器官によった五つの欲望があると言います。また、私たちが住んでいるこの世界は欲界と言われまして、食欲・淫欲・睡眠欲の三欲があるとも言われます。他にも財欲・飲食欲・名欲、さらには恋愛対象への欲も盛んだそうです。・・・納得です。 
 
自分自身は言うに及ばず、テレビやネットも欲望で溢れかえっています。日常的な悩みの多くは人間関係のものだと言われますが、そもそも人に良く思われたいという欲がなければ悩みは減りそうです。生死に関わることでなければ、別に嫌われても何てことないでしょう。しかし欲望というものは私たちが生まれたときから保持されており、意思とは裏腹に勝手に作用してくることもあります。もちろん欲望にはこうした悪いものばかりではなく、善いものもあり、善悪に関わらないものもあります。ただ、やはり生きる上で困るのは悪いほうの欲であり、これを何とかすれば多少は生きやすくなるかもしれません。 
 
仏教には止観(しかん)という修行がありまして、心の動きを出来るだけ止めて、心に経論(お経とその解説論)の教えを描き観察するという仕組みです。欲望が自分の心に由来しているのは分かりやすいでしょう。止観によって欲望が生まれる原因を突き止め、消してしまおうとするわけです。この場合、この世の事柄をすべて心に由来させる唯識学派系統の経論が最適です。しかし、内容は非常に難しい。観察に至るまで教えを習得するのは苦難の道と言わざるを得ません。 
 
仕事もありますし皆が仏教の修行ばかりしているわけにもいきません。止観をして根本的に欲望を消そうと励むことは尊いことですが、そこまでしなくてもある程度は何とかなります。これは意外と簡単で、悪い欲望をなくそうとするのではなく、ちょっとだけ減らしてみようという心掛けだけでも大分違います。 
 
ただし、我慢するのではありません。日本人の美徳とも言えましょうか、我慢することは立派なことだと言われますが、実はあまり精神的に良いことではありません。我慢も元は仏教用語で、仏教では自分自身の慢心、思い上がりを指しています。一般的な意味合いとは正反対に価値づけされているわけですが、私たちの我慢にはたしかに慢心があります。我慢している自分は立派だと思ってしまえば、それは思い上がりです。思い上がりが膨れ上がりますと、むしろ欲望を増大させます。人によく思われたいという名欲(名誉欲)です。欲望は色々なところから顔を出してくるものなのです。 
 
このように欲望には原因があります。その原因を突き止めて消してしまうのが止観なのですが、そこまで行かずとも、原因を知っておくだけで効果はあると思います。たとえば名欲であれば、これは他者に褒められたい、良く思われたいという心の裏返しです。では何故こうして褒められて良く思われたいのかと言えば、少しでも他者より優位でありたいとする思いがあるからです。優位であればより気分良く生きることが出来そうです。いつでも上から目線で物事を判断できるからです。しかし、この気分の良さというものは、どうも偽物っぽいようにも見えます。名誉を保つことは大変なことですし、いつでも他者の存在を気にしていなければなりません。大変そうですよね。SNS疲れに通じても行きそうです。 
 
ところで、向上心と名欲の違いは何でしょう。向上心はより高みを目指す自分自身との闘いです。名欲はそこに他者との関係が入り込んできます。他者を意識することが減れば、色々と面倒くさいことも減るでしょう。あいつに負けたと思わなくて済むからです。人生は勝ち負けではありません。人生は自分自身の歩みであり、他者との比較で成り立っているものではありません。他者との関係によって自分も存在しているのですが、過剰な意識は百害あって一利なしです。良く思われたいという思いを少しでも減らしていけば、本当に気分が良くなってくることでしょう。 
 
少欲知足、「欲少なくして足るを知る」と経典には説かれます。欲望を完全に消すことは至難の業ですが、ちょっとだけにしておくことは出来そうです。時には相手にどう思われようが気にしない、何と言われようがいいではないか、という心掛けです。自分が思うほど他者は気にしていないという側面もあります。自意識過剰が恥ずかしい場合もあるでしょう。 
 
冒頭に書いた私の個人的な願望ですが、こんなの毎日実行していたら疲れますよね。下手に疲れるだけでまったく充実感はないでしょう。楽しみは数少ないから楽しみなわけで、毎日続けば苦痛でしかありません。人生に充実感をもたらす秘訣は、何事もほどほどに、かと言って頑なに我慢するのでもなく、ちょっと足りない程度が丁度良い、というところです。これなら止観せずとも大丈夫そうです。 
 
身長はピョンピョンはねても伸びませんし、顔はまあ、こんな感じです。身体は先祖からの遺伝要素が大きいので、如何ともし難いです。お金は減るから仕事に精進できるとも言えますし、だからこそたまに贅沢するのもいいのです。体型を保つためには運動しないといけませんし、運動すれば健康維持にもつながります。色々な人にモテる必要はそもそもありません。モテるモテないというのは、私たちの一大事である生死にはまったく関係ありません。お金や健康はそれなりに大事だなあとは思いますが、それ以外はよく考えると一大事ってことはまるでなく、結構どうでもいい事だと言えそうです。 
 
 

『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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